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Facebook & Skype

私のサロモン時代の友人、フランスにいるのですが、

突然FacebookのFriend Requestがきてびっくり!

Sign upしたら自動的に友達候補として私が即効上がってきたみたいです。

私が転職する前にフランスに戻ったので

かれこれ10年以上あってない。

それでも近況をこんなに気軽にシェアできるって、すごい。

昔だって年賀状とか手紙とか方法はあったけど、

ぜんぜん訳違うでしょ!

そうそう、うちの母親は他聞にもれず、

パソコンとかまったく触ったことも無い人。

そんな彼女が今では私とスカイプでビデオ電話しています。

それ以外のことは相変わらずまったく出来ない、メールすら見れないけど、

遠くにいる私と顔を見ながら話したいという想い、

その一心でパソコンを立ち上げ、スカイプを開き、リストにある私の名前をクリックして…

教えたときは「クリック」が何のことか知らなかったくらい。

でも、なんていうの?すごいよね。

私の父は割りとパソコンが使えたので、

闘病中は自宅のベッドからスカイプビデオで私と話してました。

父とダンナの両親との直接のご対面はかなわなかったけど、

一度、スカイプで顔見ながらHiと言えたしね。

いたずらに進化しているだけのテクノロジーもありますが

すごく意味があり価値を作っているものもたくさんあります。

クリスマスプレゼント

今年のプレゼントもダンナの家族からいろいろもらってしまいました。

ありがたい限りです。

NYのアパートはかなりスペースが限られているので、もらったものをどこにしまうのかが本当に悩みなのですが。

ともあれ彼らは本当にプレゼント好き。

渡すほうとしてはサプライズなものを買いたいようですが、スペースが限られている身としては、何が欲しい?と聞かれるとついつい必要なものをSpecificに答えてしまう…。

でもそのほうが外れがないし実用的で良いよね。

↓ レスポサックのノートパソコンキャリーケース(ダンナの両親より)

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↓ Barefoot Contessaのレシピ本(ダンナより)

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↓ Jamie Oliverのレシピ本(ダンナより)

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名前は忘れましたがドイツビールの20本パック-何でも1040年からビール作ってるらしい

4種類あったのですが、みんなでテイスティングしながら飲んでたらよってしまいました

テイスティングの意味まったくないですね。

↓ ドイツビール(ダンナの弟カップルより)

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↓ All Cladのバターウォーマー(ダンナの両親から)

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↓ アウトドアテーブル用クロス–うちの庭BBQ用です(弟カップルより)

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↓ ラコステのバスタオル&バスマットのセット(ダンナより)

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↓ A Bucket of Popcornですね。巨大。でもこれがおいしい。(ダンナの両親より)

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どうもありがとう!でももらいすぎよね…。

クリスマスイブ

例のごとくダンナの実家、WVです。

この家族はクリスマスやサンクスギビングに家族一同集まるとトレビアゲームをやるのが恒例行事。

アメリカ的なのかこの奇妙な家族だけなのかまか不思議。

日本で大晦日に家族マージャンとかやるノリなのかもしれませんが。

それ以外には特に変わったこともなく、明日のクリスマスディナーの買出し、莫大な量のプレゼント包装作業、おばあちゃんと一緒に年一回の教会、夜はNYから仕入れた高級ビーフや鴨肉のBBQスライスとちょっとリッチなビールで豪華Dinner。

行った教会でおもしろかったのが、賛美歌を歌うのに伴奏はピアノではなくアコースティックギターだったこと。

アメリカンカントリーミュージックなノリです。

私としてはピアノかオルガンの神聖な響きを楽しみにしていたので、ちょっと残念。

アコースティックギターでOh my Lord … とかって歌っているのはちょっとおもしろかったりして。

ダンナと彼の両親はお約束のクリスマス映画を観ていて、私はちょっと退屈気味。

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多発性硬化症

うちのダンナの母親の病気です。

うちのダンナが修士号を取得しているころに発症したといってました。なので、10年以上前です。私が初めて義母に会ったとき(4年前くらい?)はすでに車椅子。ダンナ曰く、「なんだか歩き方がおかしいな」と思い始めてから1年以内にもう歩けなくなっていたといってました。

私は本人ではないので、そのつらさや大変さは計り知れないですが、彼女はいたって元気に見えます。最近太ったとか、うちの猫ちゃんたちはかわいいとか、そんなことは言いますが、歩けないことを嘆いたりすることはほとんどありません。もちろん私に遠慮?しているのかもしれませんが。

彼女の生活はもっともっとシンプルで、晩御飯がおいしかったとか、サンクスギビングに家族がそろってよかったとか、クリスマスプレゼントにダンナさん(うちの夫のお父さんですね)が買ってくれた指輪の石が小さいとか、そんなこと。

ただやっぱり車椅子なので、家のことは何もできず、病気のせいか環境のせいなのかちょっとボケが強くはなってます。

うちのダンナは厳しい人なので、「家にじっとしていないで、パートにでも出ればよいのに」と実際彼女に対しても言ったりします。きついな~とか思ったりもしましたが、ある意味歩けないからと特別扱いしない、車椅子を言い訳にするな、という感じです。彼女にしたら、病人だからもうちょっと優しくしてよ、と思いそうなくらいある意味厳しい態度…。実の親子ですからその変は任せますが。

若いころはジョギングしたり、ゴルフやったり、旅行いったりと、かなりアクティブな女性だったみたいです。

今は一日中家で過ごすことがほとんど。車が不可欠な田舎住まいで、運転ができないので単独行動は難しい。貧乏ウェストバージニアは歩道がない道路がほとんどだし、あちこちに段差もある。付き添いなしにはやっぱり外にも出にくい環境。

でも、見習うべきところは、自分に起こっている事実を、Factとして受け止めていることでしょうか。諦めでもなく、怒りでもなく、自分の両足は動かなくなってしまったので、代わりの足(車椅子)で生活している、以上。みたいな。

どこの誰にでも起こりえること。病気に限らずある日突然交通事故にあうかもしれないし。

このジョギングができるMomentに感謝、普通に仕事ができることに感謝、とか思います。

五体満足だろうが、不満足だろうが、良くも悪くも特別扱いされる必要はないし、普通の生活を送る権利があるし、そうすべきだ、ということでしょうか。

父の死

2年前から膀胱ガンを患っていた父が2009年3月30日に亡くなりました。がんが腸腰筋に転移し病院で施す治療がないと告げられてから約半年。ある意味ラッキーだと思うんだけど、治療法がないと告げられてから家に戻ることができ、10月に退院してから3月末までの最期の半年を自分の自宅で過ごすことができました。ガンという病気でむなしく病院で最期を迎える人が多い中、父が最期の大切な時間を自宅で過ごせてよかったと(もちろん治ればもっと良いんだけど)、本当に思います。私もこれまでにないくらいせっせと帰国を繰り返し…ほんとにクビにならなくて良かった…、家族全員が自分に何ができるのかを考え行動に移した貴重な6ヶ月になったと思います。

70歳目前だった父は本人はあと10年は間違いなく生きるつもりで、定年後いろいろやってたんだろうな、と思うととっても悲しくなります。NYへも絶対来るつもりだったと思うし、山もこれから本番って感じでのぼるぞーって気合入ってただろうし。プラハの旅行には私が通訳としてついていって、ヨーロッパの山登りまくって、夜はホテルで飲もうねーなんて、ひそかにこっちも計画していたし。あー書いてるだけで泣けてくる、ほんとに。

父が無くなってこちらに戻ってきた最初の一週間くらい、毎日夢にでてきたんだよね。詳しくは覚えてないのが多いんだけど、一つ鮮明に覚えているのがあって。それは別に普通の家の飲み会で、大きな座卓を家族と、昔からのご近所さんとか知り合いとかみんないて、いつもみたいに飲んでて、で「いやー楽しかったねー。」っていつもの酔っ払いデレ目で父が言ってるの。で私も「いやー、楽しかったよねー」って言ってて。寝てたけど覚えてるのが、寝ながら妙に幸せな気持ちだったこと。起きたときに「おおおー、すげーリアル」と思った久しぶりの夢でした。でも、こういう感じのリアルな夢ってためにみるのよね。キムタクが合コンで私をナンパしまくってる夢とかね。その夢のときも起きたときにこの上なく幸せな気持ちで「ああー、夢よ覚めないで」と思ったから。ま、リアルな夢はリアルよね。

そんな心の底で尊敬していた父がなくなって、私にできることって?きっと母を全力で助けてあげることなんだろうね、とか。遠くにいてろくに何もできないからそんなこと言う資格も無いけど。でも将来的に私とアダムがNYからもう少し広い家を持てるエリアに引っ越したら、うちの母親も来て住めばよいのにとほんとに思う。って母にも言ってみたら、あまり現実味なさそうでした。でも「そう言ってくれるその気持ちだけで本当に嬉しい」といつものようにしくしく泣いてました。私としては現実可能な、とっても良いアイデアだと思うけど。

今日は(も)酔っ払いなので取りとめないですが。何か残しときたくって。転勤族だった上に定年して暫くたっていた父には現在進行形でお付き合いしているお友達ってのは、ほんとに限られていたんだけど、なくなって暫くして。昔の同僚とか部下とか、ま、会社関係が多いんだけど、私も子供後頃に「あー、あのおじちゃんねー」と名前だけは知っていた人たちがたくさんお線香をあげに来てくれたみたいです。シンプルな私は、「最近私もいろいろひねくれた考え方とかしちゃうけど、やっぱり自分が死んだら悲しんで、懐かしんで、遠くてもお線香を上げに行きたい」と思ってもらえるような、そんな人生を過ごしたいと、ほんとに当たり前のことをじみじみ思ったりするのでした。

Parents in Matsue

Parents in Oze